戦後80年~人吉で母と祈った平和~

お盆も終わりました。

今日まで連休だった方も多かったのではないでしょうか。

皆様には、よい夏休みになりましたでしょうか?


今年は、昭和100年の年で。終戦から80年になります。

戦争を体験しておられる方たちは高齢者になり、

戦中の出来事や、戦後のどたばたなど

語り部がどんどんいなくなるのが現状です。

戦争を繰り返さないためにも

戦争を知るという意味で

彼ら、彼女らの

主観の混じった体験談、経験談

今一度耳を傾けたいですね。

そしてのちの世の人たちに、

少しでも直に聞いた者として、伝えていけたらと思います。


私の母は、85歳です。

なので戦争のときはこどもでした。


母は、現在認知症なので、いろんなことを忘れっぽくなっておりますが

かつての彼女は、戦争の話は好んではしませんでした。

「ほたるの墓」のアニメも見ようとしませんでした。

なので

今回、8月15日の80回目の終戦記念日に

人吉市の「ひみつ基地ミュージアム」に特攻隊の飛行機のエンジンなどが展示されているので今から行こうと思うけど、お母さんも行きますかと私がいったときに

きっと自分は行きたくないというんじゃないかと思っていたんですが

誘ってみますと意外にも、「行きたい」と言いました。


人吉の山奥にあるという、

「秘密基地ミュージアム」を知ったのは、この8月上旬。

戦後80年ということで

約一か月、

特攻隊の人たちが練習したという

通称「赤とんぼ」の実物のエンジンを展示していますというニュースを

偶然見ました。

まさか、終戦記念日その当日に行くことになるとは思ってもいなかったんで

すが

たとえ母がいかなくても一人でも絶対に行つもりでした。


人吉のひみつ基地ミュージアムは

人吉の、本当に山のなかにありました。

案内板などが少なく、

ナビを使っても何度も迷いました。

八代からは約1時間(一発でいければ)

鳥栖からだと約2時間半から3時間ということになりますね。

山の中に新しい建物。

アウトドアの施設のような感じすらします。

結構素敵な建物でした。

「秘密基地」というワード。

惹かれますよね。

子供のころに、皆さんも秘密基地つくりませんでしたか?

私も廃墟や空き家、ドラム缶などで

勝手に自分の秘密基地したものです。

そんな昭和世代の心をくすぐるネーミング。

終戦記念日に。

秘密基地ミュージアムに来れるなんて。

しかも。母と一緒に。

この日の最終の受付になりました。

↑これが、赤とんぼのエンジン。実物です。

とても迫力があります。

かっこいいなんて言ってはいけないのでしょうが。

やはり美しいと思います。

案内人の方もやはりそのように言われておりました。

「かっこいい、っていっちゃいけないんでしょうけど・・」と私がいうと

「ええ、でも」

赤とんぼの展示は、8月いっぱいだそうです。

私は、もう一度、じっくりいけたらいいなと思ってます。


80回目の終戦記念日に

母と

人吉の「ひみつきちミュージアム」に来れて

母と一緒に平和を祈れたこと。

認知症の母はきっとすぐに忘れてしまうけど

私は、絶対に今日の日のことを忘れないと思った。

二人で一枚ずつ、書きました。

病気の影響で、手や指が震えて、うまく文字が書けない彼女だけど

しっかりかけました。



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母に認知症の症状が出始めて。

医者に認知症と診断をされてから、早いもので約まる二年になります。

症状はもっと早くから出ておりました。

正式に診断がついたのが約二年前です。

そしてその時に

幻聴のため、一人で自分の家では寝れなくなってしまっていた母を

一度、鳥栖へ約一週間?十日ほど。連れて帰ってきました。


それまで、ひとつきに一度、2泊三日で、八代にはいっておりましたが

変だ、変だ、となんとなく違和感、いままでと違うものを感じてはいたものの

幻聴、ということに気づかなかった。

診断されてから鳥栖の私の家へ彼女を連れてきたときに。

ああ、これは、ここではダメだと。

痛感しました。

認知症の人の場所を変えるのはよくないと、知ってはいたけど本当に、鳥栖では無理だと思った。

で、次に考えたのが、自分が八代に行くということ。

母を母の家で眠らせるには、一緒に横で添い寝をしないといけないから。

母は、孤独だったんだ。寂しかったんだ。鬱になるほどに。

ということに。

気づいた。

私はそれまで、裁判や事故のことなどで、自分のことばかりで本当に精一杯だった。

一か月に一度、二泊三日で泊まりにいくことと

二日おきくらいには電話をしていたので、それでいいと・・本当に思っていたんです。


母のそばにいて

母をサポートする人がいなかったので

自分が、いこうと思いました。


寂しかったであろう母を、幸福感でいっぱいにしてあげたいと思った。

私のこれからの人生の、半分を、母のために使おうと思った。

だから一週間ごとに一週間泊まり込むという、隔週での介護が始まった。


いまは、ほぼ八代で

むしろ、鳥栖に帰ってくるのが一か月に一週間ほどになっています。

母の認知症はすすみ

私のことも

娘と認識していることもあるけど

死んだ叔母と(母にとっては姉)と思われてるときのほうが多くなってきています。


自分が一番に忘れられることになるかもしれないことは、

母をサポートする決心をしたときに、覚悟していたため

少し寂しいのはあるけど、そんなにつらい悲しいとは思いません。


私をみながら、

帰ってくる私を待っていたりすることもあり、カギをかけるなと怒られたりして

大変なことも本当に多いのが現状です。

実の母に

顔もみたくない、姿もみたくない、出ていけと言われる日々は

心が本当に折れそうになることも多々あります。


認知症の介護は、きれいごとではなく、本当に、えぐいほど、きつい、です。

体力的にも、精神的にも。

叫びたいことも、投げ出したくなることも、本当に多いんだけど。


以前より、さらに認知が進んだ彼女の行動や思考を、変えることは難しく

この状態になってしまうと、もう理解も説明も通じないので、ご家族が大変だと思うけれど、どうしても無理なら施設を考えられたほうがいいかもしれませんと

主治医に話された、

もう、

話が通じないだろうと。

説明も無理だろうと。


彼女の暴言に傷つき、一人泣いてきたけど。

そんなレベルじゃすまなくなるような気もするけど。

自分が、さらにさらに変わっていくことしかないと、その時、実感した。


変えるべきは彼女ではなく。自分なのだと。

さらに忍耐や我慢が増えていくだろうと、

少し途方にくれてしまったけど。


それでもやっぱり、

回数は減ってきたようにも思うけど、

時折、あらわれる、昔の母の面影があるうちは


彼女が在宅を望み

それが可能なうちは

一日でも長く、在宅を続けさせるためにサポートしようと思う。


80回目の終戦記念日を母と平和を祈ったことを忘れないで

不穏の彼女をいかにうまくかわしていくかの

自分のスキルをもっともっと高められるよう

そして小さいことで傷つかない心を持ちたい

母のいう暴言など、小さなこととして流せるような自分になりたい。


そして鳥栖に帰ってきたときだけ。

素の自分に戻って、


「好きな時間にテレビをみて。好きな温度で過ごして。好きな声の大きさで話す。

一人のベッドで寝て、体を伸ばす。」


そんな。我慢をしなくていい、自由な自分であれたら、と思う。


それらは、八代でまた頑張れるために。必要な時間だから。


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書きなぐったような感じになってしまいました、

乱文、申し訳ございません。

介護の皆様

お疲れさまです。

情報交換していきましょう☆

メッセージお待ちしております☆


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